仏壇工房 伝 | 日記 | 伝物語-011 伝の由来


2013/08/05
伝物語-011 伝の由来


なんとか回りの方達に支えられ高校は卒業できましたが、これからは仕事に集中できると思った矢先、大きな試練が待っていました。

バブル景気の末期、卒業とともに日本のバブル経済は崩壊しました。

バブル崩壊とともにお仏壇を製造するメーカーにも変革、改革の波が押し寄せてきました。

バブル崩壊に伴ない、海外に生産拠点を移す動きが加速されました。

国内メーカーは受注の減少、安価な海外製品に対抗する為のコストダウン、設備投資をし下請け業務を取込むことでどうにか頑張っていたような状況でした。

当初父の会社は某大手のお抱えメーカー的な立場だったので、受注が一気に減る事でもなかったですが、時代の流れ、メーカー側も海外の大きな工場から輸入するようになっていきました。

当然父の会社も改革を迫られるようになり、まずは生産本数を減らし、授業員のリストラ、下請けへ出していた仕事を取込み、利益率を上げようと努力していましたが、下請けに出していた仕事は私の仕事と同じ分野、塗装業でした。

当然仕事が回ってくる先は私の部署で数が減っても仕事量は変わらず、変わらないどころか増える一方でした。

ただこの頃には仕事の要領、段取りも以前より はるかによくなっていて、逆に組立や木地加工に手伝いに行く事も多くありました。

前の仕事の流れは、大まかに分けて【木工→外注→組立→仕上→出荷 】の流れで私は最後の仕上と出荷でしたが、「外注」=下請け部分 の仕事、その3,4割の仕事をしなくてはならなくなりました。

それはとても大変な作業で、私が遅れれば組立が仕事が無くなり、まさしく餌を求めるヒナと同じ、それをしている間は仕上、出荷が出来ないので、最終的にはお金の問題で関連業者も含め多くに迷惑をかけかねない、責任が倍になったようなものでしたし、組立できなければ自分の部署の仕事さえ滞る事になるのでプレッシャーを感じながら常に頭を働かせていました。

ただいそがしながらも、仕上しながら常に感じていた仕事上の改善点は多く見えるようになりました。

小さい家族経営の工場では何でもこなせる技術者が一人二人要るものですが、作業工程が分業化された工場では、私はこの仕事は出来るが、他の仕事は出来ない職人さんが多いこの業界では、はっきり言って「知ろうとしない人」が多くいましたし、ましてや自分の仕事にプライドがある職人さんに改善させるのは困難でした。

またほとんどの職人さんは50代、60代で柔軟な思考に欠け、柔軟性のある30代、40代の職人さん達はバブル景気でどこも人材不足の中引く手あまたの中去って行き中間層は不足どころか希少、バブル崩壊で職を求めて入ってきたバブル景気で育てられた若者、当時改善策を話し合っても、なかなかうまくいきませんでした。

ただ会社に入ったのは私より後になりますが、7歳上の兄がいて高校卒業後は電気屋さんに就職していましたが、途中から父の会社に勤めていました。

やはり実家の稼業と言う状況の中、同じように責任ある立場にあった兄が柔軟な考えでその後は先頭に立って改善に取り組んでくれていました。

この兄の存在で会社の商品に対する方向性、改善は大きくはかられたていた気がします。

当時の私はまだまだ自分が先頭に立って改革なんてできるほどの人間では無かったように思いますが、兄を見ながら自分の主張をどう表現するのか少しずつ学べた気がします。

忙しいながらも、仕事や自分の置かれている状況を呪う事もありましたが、逃げ出さずそこに身を置いたおかげで、一般従業員の人より多を体験し、一般従業員の人が10年かけて経験する事も5年もかからず経験できたと思います。

急激な時代の流れについていく中で凝り固まった思考は持たなかった、と言うより持てなかったと表現する方が正しいでしょう、昔の名言にある「若いうちの苦労は買ってでもしろ」  を実践できた気がします。

この時の経験が今の自分の一番の原動力でなっていると思います。

次回は少し父についてお話したいと思います。


お仏壇の事なら仏壇工房 伝 

 

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