仏壇工房 伝 | お店のミカタ https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/ お仏壇・仏具・伝統の技で心を伝えるお手伝い 工場直販だからできる業界最安 https://asset.omisenomikata.jp/Hp360/b8/83/761247/761247_57bdebb883_header_logo_pc.jpg 仏壇工房 伝 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/ 【カテゴリーなし】 モダン位牌 橘(たちばな) 内屋久杉 3.5寸 Fri, 13 Sep 2013 15:44:43 +0900 526027 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/526027 日本の銘木 屋久杉を中央にあしらったお位牌です 【インテリア】 ほのか 銀彩 5具足 Thu, 12 Sep 2013 14:21:49 +0900 481272 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/481272 陶芸仏具<br /><br />比較的小さなお仏壇、特に上置きタイプ、家具調タイプに合います。<br /><br />写真はお色はジンパープル 、その他ピンク、グリーン、イエローをご用意しています。<br /><br /><br /><br /><br />&nbsp;&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp<br /> 【日記】 伝物語012-伝の由来 Wed, 11 Sep 2013 15:36:08 +0900 528290 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/528290 <span>私の父は一言で言えば、「お人好し」、「お調子者」、でとてもひょうきんな人で、私にはよく口癖のように言って聞かせていた言葉があります。</span><br /><br /><span>「人を騙す人間にはなるな、騙すくらいなら騙される人でいい」と「世の中には食べたくても食べられない子共がたくさんいるのだから、食べ物を粗末にするな、生産者、食材その物に感謝しなさい」でした。</span><br /><br /><span>もちろん父の教えは私にとってとても大きな影響もありましたが、由も悪しもそれを父を見ながら勉強させてもらった気がします。</span><br /><br /><span>父が会社を経営していた頃は人にお金を貸して裏切られた事もありましたが、そんな事も見てきましたので、騙されるのも考え物だと10代で勉強させられました。</span><br /><br /><span>今では笑い話ですが、こんな父の人柄があったからこそ父が工場を始めるさいに、大手お仏壇販売のメーカーさんからお声がかかり、父の工場はスタートできたのだと思います。</span><br /><br /><span>食べ物に関しては、できるだけ言いつけを守るようにはしていますが、長い海外生活でとても役にたったのはこの教えでした。</span><br /><br /><span>また父は常々私が好き嫌いを言うと必ず「これは辛いからまずい、おいしくないのではなくて、これは元々辛い料理で辛いからおいしいのだ」ほかにも苦い、甘い、臭い、置き方を変えれば同じですが、父は必ずこう言って私に教えていました。</span><br /><br /><span>私にはそう教えながらも、父は好きな物しか食べない人だったので、父だけ別メニュウだから当然、「残す」事はなかったのでこれも笑える話です。</span><br /><br /><span>海外にでて一番苦労する一つが食事なのですが、私はどんな国に行っても目の前に出る料理を「おいしい」と食べられるので食の苦労は一切無く、乗り切る事が出来ました。</span><br /><br /><span>ただ海外では相手に全部食べられると、礼儀が足りないと思う文化の場所もあり、相手によけいに気を使わせる事になったこともしばしばありましたし、出張などで食事に誘われると、残さないようにしていると数日で太ったりしました。</span><br /><br /><span>昔と違い現在は栄養価、カロリーの高い食品が多いので最近では、お腹いっぱい食べないように注意しています。</span><br /><br /><span>実は私の父は、ここ最近では記憶に新しい関東大震災で被害にあった東北、福島県の出身で、徳島の阿波弁を話すようになったのは私が大人になってからだったように思います。</span><br /><br /><span>父の影響を受けてか、私もあまり阿波弁が上手にしゃべれず、少しいじめられていたように思いますが、海外に指導に出てからは、標準語に近いのか通訳の人達に私の日本語がわかりやすかったようです。</span><br /><br /><span>父が亡くなった年の2011年3月11日にあの地震があり、当年5月に他界しましたがTVで震災のニュースを悲しそうに見ていた父の姿は今も記憶に残っています。</span><br /><br /><span>ガンに侵されていた父には体力も無く、春に福島に連れて行きたかったのですが震災の事もあり、生まれ故郷に連れて行ってあげられなかったのが、今の私の心残りです。</span><br /><br /><span>私が小さい頃、一番印象に残っているのは、当時金曜のゴールデンタイムに新日本プロレスが放送されていて、始まるのはちょうど父が晩酌を終えた後、私もタイガーマスク見たさに必ずテレビの前にいるので、メインのアントニオ猪木戦を見ながら、ほろ酔い加減の父に「足四の字固め」の餌食にされていた事ですね、しかも毎週必ずの恒例行事みたいになってました。</span><br /><br /><span>ただひとたび工場で作業を始めれば、腕の良い職人で私も父から色んな事を教わりました。</span><br /><br /><span>父は木工と組立が得意で、当時はお手伝い程度の事しか教わりませんでしたが、父が引退後に私がいろんな技術、知識を学んでいる頃には良きアドバイザーとなってくれました。</span><br /><br /><span>人付き合いが良く、断れない性格の父は、会社が忙しいい時でも飲みに行ってしますこともしばしばありましたが、人としてとても尊敬できる人生の大切な師匠でした。</span><br /><br /><span>人柄が良くても経営に関しては褒められた人ではなかったので、バブル崩壊と共に会社は衰退し倒産を余儀なくされましたが、落ち込む事なく明るさを失わなかったポジティブな性格もいまの私に受け継がれていると思います。</span><br /><br /><span>父から教わった教えは大切に私の子供達に教えています。</span><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝</a><br /><br /> 【日記】 伝物語013-伝の由来 Mon, 09 Sep 2013 18:37:42 +0900 527419 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/527419 <span>私の父は一言で言えば、「お人好し」、「お調子者」、でとてもひょうきんな人で、私にはよく口癖のように言って聞かせていた言葉があります。</span><br /><br /><span>「人を騙す人間にはなるな、騙すくらいなら騙される人でいい」と「世の中には食べたくても食べられない子共がたくさんいるのだから、食べ物を粗末にするな、生産者、食材その物に感謝しなさい」でした。</span><br /><br /><span>もちろん父の教えは私にとってとても大きな影響もありましたが、由も悪しもそれを父を見ながら勉強させてもらった気がします。</span><br /><br /><span>父が会社を経営していた頃は人にお金を貸して裏切られた事もありましたが、そんな事も見てきましたので、騙されるのも考え物だと10代で勉強させられました。</span><br /><br /><span>今では笑い話ですが、こんな父の人柄があったからこそ父が工場を始めるさいに、大手お仏壇販売のメーカーさんからお声がかかり、父の工場はスタートできたのだと思います。</span><br /><br /><span>食べ物に関しては、できるだけ言いつけを守るようにはしていますが、長い海外生活でとても役にたったのはこの教えでした。</span><br /><br /><span>また父は常々私が好き嫌いを言うと必ず「これは辛いからまずい、おいしくないのではなくて、これは元々辛い料理で辛いからおいしいのだ」ほかにも苦い、甘い、臭い、置き方を変えれば同じですが、父は必ずこう言って私に教えていました。</span><br /><br /><span>私にはそう教えながらも、父は好きな物しか食べない人だったので、父だけ別メニュウだから当然、「残す」事はなかったのでこれも笑える話です。</span><br /><br /><span>海外にでて一番苦労する一つが食事なのですが、私はどんな国に行っても目の前に出る料理を「おいしい」と食べられるので食の苦労は一切無く、乗り切る事が出来ました。</span><br /><br /><span>ただ海外では相手に全部食べられると、礼儀が足りないと思う文化の場所もあり、相手によけいに気を使わせる事になったこともしばしばありましたし、出張などで食事に誘われると、残さないようにしていると数日で太ったりしました。</span><br /><br /><span>昔と違い現在は栄養価、カロリーの高い食品が多いので最近では、お腹いっぱい食べないように注意しています。</span><br /><br /><span>実は私の父は、ここ最近では記憶に新しい関東大震災で被害にあった東北、福島県の出身で、徳島の阿波弁を話すようになったのは私が大人になってからだったように思います。</span><br /><br /><span>父の影響を受けてか、私もあまり阿波弁が上手にしゃべれず、少しいじめられていたように思いますが、海外に指導に出てからは、標準語に近いのか通訳の人達に私の日本語がわかりやすかったようです。</span><br /><br /><span>父が亡くなった年の2011年3月11日にあの地震があり、当年5月に他界しましたがTVで震災のニュースを悲しそうに見ていた父の姿は今も記憶に残っています。</span><br /><br /><span>ガンに侵されていた父には体力も無く、春に福島に連れて行きたかったのですが震災の事もあり、生まれ故郷に連れて行ってあげられなかったのが、今の私の心残りです。</span><br /><br /><span>私が小さい頃、一番印象に残っているのは、当時金曜のゴールデンタイムに新日本プロレスが放送されていて、始まるのはちょうど父が晩酌を終えた後、私もタイガーマスク見たさに必ずテレビの前にいるので、メインのアントニオ猪木戦を見ながら、ほろ酔い加減の父に「足四の字固め」の餌食にされていた事ですね、しかも毎週必ずの恒例行事みたいになってました。</span><br /><br /><span>ただひとたび工場で作業を始めれば、腕の良い職人で私も父から色んな事を教わりました。</span><br /><br /><span>父は木工と組立が得意で、当時はお手伝い程度の事しか教わりませんでしたが、父が引退後に私がいろんな技術、知識を学んでいる頃には良きアドバイザーとなってくれました。</span><br /><br /><span>人付き合いが良く、断れない性格の父は、会社が忙しいい時でも飲みに行ってしますこともしばしばありましたが、人としてとても尊敬できる人生の大切な師匠でした。</span><br /><br /><span>人柄が良くても経営に関しては褒められた人ではなかったので、バブル崩壊と共に会社は衰退し倒産を余儀なくされましたが、落ち込む事なく明るさを失わなかったポジティブな性格もいまの私に受け継がれていると思います。</span><br /><br /><span>父から教わった教えは大切に私の子供達に教えています。</span><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝</a><br /> 【インテリア】 京風 ワイン6具足  Thu, 29 Aug 2013 10:35:20 +0900 480707 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/480707 唐木仏壇に合う人気のおしゃれなモダン仏具<br /><br />カラーも人気のワイン色、あらゆるタイプの唐木仏壇、家具調仏壇にマッチします。<br /><br />上置きタイプ、18号以上の台付仏壇にはサイズ不足になります。<br /><br /><br />&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp<br /><br /><br /><br /> 【インテリア】 モダン仏具 角型7具足 Wed, 28 Aug 2013 12:26:58 +0900 476405 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/476405 国産人気のモダン仏具<br /><br />下台付の標準型仏壇であれば18号、20号サイズにピッタリ&nbsp;<br /><br />お色も黒なので鏡面仕上げ、オープン仕上、明色、桜等<br />機種を問わず使えます。<br /><br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp 【インテリア】 京型菊唐草11具足 Mon, 26 Aug 2013 12:28:45 +0900 478175 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/478175 彫金が鮮やかな国産高級仏具<br /><br />&nbsp; 寸法は3.5寸 &nbsp; 花立  : 高102mm径84mm &nbsp; 机上香 炉 : 高65mm径100mm &nbsp; 火立  : 高170mm径  62mm &nbsp; 特殊な サイズ(小型、ミニ、上置き)以外標準のお仏壇であれば 18号~21号まで のお仏壇に適しております。<br /><br />&nbsp;<br />&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp<br /><br />&nbsp;<br /> 【インテリア】 花鳥11具足 Fri, 23 Aug 2013 14:09:11 +0900 477197 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/477197 お仏壇の定番 国産高級仏具<br /><br />花鳥11具足<br /><br /> &nbsp; 寸法は3.5寸 &nbsp; 花立  : 高106mm径78mm &nbsp; 机上香 炉 : 高75mm径105mm &nbsp; 火立  : 高175mm径  58mm &nbsp; 特殊な サイズ(小型、ミニ、上置き)以外標準のお仏壇であれば 18号~21号まで のお仏壇に適しております。<br /><br /><br /><br /><br /><br />&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp<br /> 【インテリア】 ダルマ型 台付桜色 【自社工場生産だから出来る安心の低価格】 Tue, 13 Aug 2013 11:03:58 +0900 467841 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/467841 和室、リビングどちらにでも合う人気のダルマ型(定価78000円)<br />高さ1100㎜<br />幅560㎜<br />奥行340㎜<br />想々シルバーピンク6具足(定価16500円)<br />たまゆらリン リン棒付(定価9800円)<br />おくやみセット(定価1000円)線香、ロウソク、灰のセット<br />こちらの4点セットをご奉仕価格65000円(税込、送料無料)<br />お送りする商品は展示品ではなく在庫の新品をお送りします。<br /><br />こちらの商品はインターネット販売しておりませんので、当社ホームページ<br />もしくはお電話、FAXにてお問い合わせください。<br />沖縄、北海道、離島等への配達は別途計算になります。<br /><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp<br /><br /><br /><br />&nbsp; 【日記】 伝物語-011 伝の由来 Mon, 05 Aug 2013 15:11:16 +0900 512041 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/512041 <span>なんとか回りの方達に支えられ高校は卒業できましたが、これからは仕事に集中できると思った矢先、大きな試練が待っていました。</span><br /><br /><span>バブル景気の末期、卒業とともに日本のバブル経済は崩壊しました。</span><br /><br /><span>バブル崩壊とともにお仏壇を製造するメーカーにも変革、改革の波が押し寄せてきました。</span><br /><br /><span>バブル崩壊に伴ない、海外に生産拠点を移す動きが加速されました。</span><br /><br /><span>国内メーカーは受注の減少、安価な海外製品に対抗する為のコストダウン、設備投資をし下請け業務を取込むことでどうにか頑張っていたような状況でした。</span><br /><br /><span>当初父の会社は某大手のお抱えメーカー的な立場だったので、受注が一気に減る事でもなかったですが、時代の流れ、メーカー側も海外の大きな工場から輸入するようになっていきました。</span><br /><br /><span>当然父の会社も改革を迫られるようになり、まずは生産本数を減らし、授業員のリストラ、下請けへ出していた仕事を取込み、利益率を上げようと努力していましたが、下請けに出していた仕事は私の仕事と同じ分野、塗装業でした。</span><br /><br /><span>当然仕事が回ってくる先は私の部署で数が減っても仕事量は変わらず、変わらないどころか増える一方でした。</span><br /><br /><span>ただこの頃には仕事の要領、段取りも以前より はるかによくなっていて、逆に組立や木地加工に手伝いに行く事も多くありました。</span><br /><br /><span>前の仕事の流れは、大まかに分けて【木工&rarr;外注&rarr;組立&rarr;仕上&rarr;出荷 】の流れで私は最後の仕上と出荷でしたが、「外注」=下請け部分&nbsp;の仕事、その3,4割の仕事をしなくてはならなくなりました。</span><br /><br /><span>それはとても大変な作業で、私が遅れれば組立が仕事が無くなり、まさしく餌を求めるヒナと同じ、それをしている間は仕上、出荷が出来ないので、最終的にはお金の問題で関連業者も含め多くに迷惑をかけかねない、責任が倍になったようなものでしたし、組立できなければ自分の部署の仕事さえ滞る事になるのでプレッシャーを感じながら常に頭を働かせていました。</span><br /><br /><span>ただいそがしながらも、仕上しながら常に感じていた仕事上の改善点は多く見えるようになりました。</span><br /><br /><span>小さい家族経営の工場では何でもこなせる技術者が一人二人要るものですが、作業工程が分業化された工場では、私はこの仕事は出来るが、他の仕事は出来ない職人さんが多いこの業界では、はっきり言って「知ろうとしない人」が多くいましたし、ましてや自分の仕事にプライドがある職人さんに改善させるのは困難でした。</span><br /><br /><span>またほとんどの職人さんは50代、60代で柔軟な思考に欠け、柔軟性のある30代、40代の職人さん達はバブル景気でどこも人材不足の中引く手あまたの中去って行き中間層は不足どころか希少、バブル崩壊で職を求めて入ってきたバブル景気で育てられた若者、当時改善策を話し合っても、なかなかうまくいきませんでした。</span><br /><br /><span>ただ会社に入ったのは私より後になりますが、7歳上の兄がいて高校卒業後は電気屋さんに就職していましたが、途中から父の会社に勤めていました。</span><br /><br /><span>やはり実家の稼業と言う状況の中、同じように責任ある立場にあった兄が柔軟な考えでその後は先頭に立って改善に取り組んでくれていました。</span><br /><br /><span>この兄の存在で会社の商品に対する方向性、改善は大きくはかられたていた気がします。</span><br /><br /><span>当時の私はまだまだ自分が先頭に立って改革なんてできるほどの人間では無かったように思いますが、兄を見ながら自分の主張をどう表現するのか少しずつ学べた気がします。</span><br /><br /><span>忙しいながらも、仕事や自分の置かれている状況を呪う事もありましたが、逃げ出さずそこに身を置いたおかげで、一般従業員の人より多を体験し、一般従業員の人が10年かけて経験する事も5年もかからず経験できたと思います。</span><br /><br /><span>急激な時代の流れについていく中で凝り固まった思考は持たなかった、と言うより持てなかったと表現する方が正しいでしょう、昔の名言にある「若いうちの苦労は買ってでもしろ」 &nbsp;を実践できた気がします。</span><br /><br /><span>この時の経験が今の自分の一番の原動力でなっていると思います。</span><br /><br /><span>次回は少し父についてお話したいと思います。</span><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /><span>&nbsp;</span> 【日記】 伝物語010-伝の由来 Tue, 23 Jul 2013 16:18:13 +0900 505925 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/505925 <span>当時の私の担任はそれまでは進学校の学年主任をしていたそうで勝手の違いに戸惑っていたように思います。</span><br /><br /><span>私のいた定時制高校に通っている生徒大半は、昼間仕事をしている人間がほとんどで高校生ではありますが社会人として自立している者が多くいました。</span><br /><br /><span>それに定時制に通うのにはなんらかの訳がある訳で、家庭の事情で通う者、受験に失敗した者、すでに社会人ではあるが高校を卒業してなかった人、専門教科を受講したくて入りなおした人もいましたし年齢もバラバラでした。</span><br /><br /><span>休み時間になると休憩室でタバコを吸う人も多く見うけられました。</span><br /><br /><span>3年の終わりくらいには車で登校してくる者も多く、制服はありましたが基本私服でしたね、いろんな事情があるにせよ周りから見れば当時は不良だとか、ヤンキ-と呼ばれていた者も多く、多種多様な人間が入り混じっていました。</span><br /><br /><span>高校生と言っても昼間仕事をしていて収入があり回りの友達たちとはかなり違う生活をしていたと思います。</span><br /><br /><span>3年の終わりには頭金も無いのに無理して新車の当時流行っていたユーノスロードスターを購入、ローンの支払い、保険、生活費を引かれ給料7000円て時もありましたが今となっては良い思い出です。</span><br /><br /><span>話がそれましたが、昼間の高校から赴任してきた担任の先生にしてみれば異様にも思えたでしょうし、接し方も難しかったと思います。</span><br /><br /><span>当時の私と言えば、たまに登校しても授業中はほとんど居眠りばかりしていましたが、時間があればとにかく学校には行くようにしていました。</span><br /><br /><span>私からすれば学校に通うのは困難な状況でしたが、母が学校だけは卒業した方が良いといつも言っていましたし母が子供の頃は学校にも通えなく、小学校が最終学歴だったので、なんとなくですが母の想いみたいなものを感じどうにか卒業しようと思い通っていました。</span><br /><br /><span>母の存在が無ければ学校は中退していたでしょう。</span><br /><br /><span>それでも出席日数、時間、単位は当時の私にとっては悩みのタネで、学校終わってからの残業とかは今で言うモチベーションが下がり、仕事に集中するのも大変でした。</span><br /><br /><span>ある日の2時限目の事でしたが先生が出席を取っている時に私が返事をしたところ、「今来たのか」と言われたのにカッとなって身近にあったボールペンを投げつけてしまいました。</span><br /><br /><span>その日は私にしては珍しく1限目から出席していましたが、1限目に出席をカウントされていない事に腹が立ったのが原因でした。</span><br /><br /><span>言い訳をしても許される行為ではないですが、当時先生は黒板に向いたままよく返事だけで出席を取っていましたので、出席だけ返事して遊びに出て行く者や、代行で返事してもらう者も多く見られ、仕事の疲れも相まってストレスが溜まっていたのも事実でしたし、実際先生の態度にも問題があったのも事実でしたが、何よりこれがこの先生との初めてのコミニケーションらしいコミニケーションだったのかもしれません。</span><br /><br /><span>この日すべての授業が終わった後職員室に呼び出された私は、声を荒げ先生に食って掛かりましたが、先ずはなだめられ、初めて面と向かって先生と話す事が出来ました。</span><br /><br /><span>よくよく考えれば授業にもあまり来ない、来ても居眠り、高校はもう義務教育の場ではないのに甘えていたのは私の方なのに情けない限りです。</span><br /><br /><span>後でほかの授業の先生に聞かされたのですが、どの科目も出席時間が足りず、補習授業の範囲を超えていたのをこの先生が補習で何とか出来るようにお願いしてくれていたそうです。</span><br /><br /><span>きっかけは卒業が危ないので家に連絡した際、母から私の現状を聞かされ、何も言わすサポートしていてくれたそうで、一人の生徒を特別扱いしているような事は言えないし、私が甘え、勘違いしてもだめだと思ったみたいです。</span><br /><br /><span>実習の先生の授業中、実習生の先生が居眠りしている私を起こそうとしている時にかなり疲れてるから今は眠らせてあげてと先生が言ってくれました、目は開けていないがその時すでに起きていた私はとても感動しました。</span><br /><br /><span>声に出さないと分からない事、伝えないと気持ちは伝わらないですが、職人の師匠を見てきた私には師匠と同じ優しさ、昔堅気みたな優しさ、立場が全然ちがう職人ではない先生が私の2番目の師匠だったと今は思いますしいろんなところで仕事を教えていく上でも役に立っていると思います。</span><br /><br /><span>昔行った事のある管理者養成学校でも「嫌われる上司は良い上司」と教えられましたが、先生はブスッとして、厳しい人でしたが、私の為にしてくれていた事を自分からは言わないまさに「嫌われる上司」を体現してくれていた良き師匠でした。</span><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /> 【日記】 伝物語009-伝の由来 Fri, 19 Jul 2013 13:17:34 +0900 503870 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/503870 <span>私が尊敬し、頼り、現場に復帰し、今までとは違いその傍らで手伝いではなく一緒に会社を盛り立ててくれると信じていた師匠が去り、そこからはいろんな意味で職人として、社会人として、一人の個人として成長して行く事になりました。</span><br /><br /><span>またバブル後期のその頃は3Kが流行していた頃でした(3K=汚い、臭い、給料安い)要するに肉体労働はカッコの悪い職業でした。</span><br /><br /><span>会社の中でも特に良く面倒を見てくれてた30代の職人さん達は次々辞めていきました。</span><br /><br /><span>確かに私自身それだけ仕事していても給料は15万円(残業代込)程度でしたから本音を言えば逃げ出したいくらいでしたが、自分の置かれている立場がそうはさせてもらえませんでした。</span><br /><br /><span>師匠が去った事で私の仕事環境はいつまで経っても改善されることは無く、むしろ厳しさを増していったように思いました。</span><br /><br /><span>会社としても仕上場の状況を改善しようと仕上職人を募集してみても、どこでも引っ張りだこだったので来てくれる人は見つからず、時間はかかっても若い初心者を雇い私が教えていく事になりました。</span><br /><br /><span>とは言え3K時代になかなか働き手も無く、結局は私の友達で同じ学校に通う仲間を誘って若い人材を確保していました。</span><br /><br /><span>気心がしれている仲間との仕事は、忙しくも楽しくありましたが、逆に今まで対等の友達関係にあった仲間と仕事上とはいえ上下関係が生まれ、やりずらさも感じていました。</span><br /><br /><span>小学校、中学校と色々なクラブ活動はしていましたので体育会系の上下関係の考え方、日本的な上下関係、社会の上下関係を経験してきましたが、同い年で中学時代からの友人を指導したり、教えるのはかなり気をつかいました。</span><br /><br /><span>なんといっても師匠が師匠でしたから、「仕事は見て盗め」を実践してきた私に他人を教えるなんてことは正直かなり苦悩の連続でした。</span><br /><br /><span>ただこの苦悩もまたこの後の人生では大きなプラスにはなりましたね、指導者と言う立場で海外に出たのも、職人、会社員としてもまだまだ若かったですが、物怖じせず踏み出せたのも、指導してこれたのも、若いころから多くの人達といろんな立場で、出会い、接してきた経験が生きたと思います。</span><br /><br /><span>言い訳する訳ではないですが、学の無い私が社会で学んだことは、何よりもまず人とのつながりが大切なんだと言う事、結果的には良くも悪くもなりますが、いろんな人と出会い、接して、つながっていく事が土台としてなければ勉強だけしていてもそれを本当に生かす事は出来ないと今は感じています。</span><br /><br /><span>いつもながら話がそれてしまいましたが、新体制で仕事をしていく中で若かった事もあり、私を含め部下もどんどん腕を上げて、仕事も相変わらず忙しいながらも、うまくやっていたと思います。</span><br /><br /><span>ただこれも若かったからか回りの部下も1年くらいで、仕事を出来るようになるとすぐに辞めていきました。</span><br /><br /><span>この頃はよく母が仕事を助けてくれましたのと、高校最後の年に就任してきた先生この二人が精神的な支えになっていたかもしれません、母は徳島の田舎、秘境みたいな場所で生まれ育ち、小さい頃から兄弟の面倒を見ながら働いてきた人で、忙しい時は毎晩12時くらいまで手伝いに来てくれました。</span><br /><br /><span>仕事の連携もスムーズで一番頼りになるサポートをしてくれている従業員のおばさんは、私が入る前、師匠の頃から勤めてる人なので、私にとっては最も計算できる、頼りになるかたでした。</span><br /><br /><span>ですがやはり女性で家庭もあるので残業しても毎日はとても無理でしたから、その後は母が良く手伝いに来てくれていました。</span><br /><br /><span>親子としてはもちろん母には感謝していますが、仕事でも支えてくれていた母には本当に感謝しっぱなしですね、おかげで反抗期に反抗できなかったです。</span><br /><br /><span>この高校最後の年、一番感謝しなければいけないのはこの年担任として就任した先生でしたが、最初の印象はとにかく最悪でした。</span><br /><br /><span>次回伝物語010で少しこの先生の話に少し触れたいと思います。</span><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a> 【インテリア】 ほのか 5具足 Sat, 13 Jul 2013 13:27:26 +0900 479819 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/menu/479819 陶芸仏具<br /><br />比較的小さなお仏壇、特に上置きタイプ、家具調タイプに合います。<br /><br />写真はお色はジンパープル 、その他カナリアイエロ-、ミントグリーンをご用意しています。<br /><br /><br /><br />&nbsp;&nbsp;<a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br />〒769‐0104<br />住所 香川県高松市国分寺町新名448番地<br />1℡ :087-814-3836<br />fax:087-814-3866<br />HP : info@den-butsudan.jp 【日記】 伝物語008-伝の由来 Thu, 11 Jul 2013 10:15:41 +0900 499935 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/499935 <span>忙しく仕事をいていながらも、従業員さんへの指示、外注先への発注、組立部との連携、毎月2回の生産会議、その他諸々を自分でもビックリするほどにこなせていました。</span><br /><br /><span>とはいえ人材不足は相変わらず補えず遅くまで残業する体制に変わりはありませんでした。</span><br /><br /><span>1番の問題は私だったのだと言う事に気が付いたのは最近になっての事でしたが、そもそも職人さん同士はプライドが高い人が多く、なかなか他人となじめない方が多かったからでもありましたが、当時の私は17歳のよく言う「若造」であり私の下に職人さんを付けるのはまず無理もあり、未経験者を雇ってもまだまだ人に教えられるような職人には程遠い存在だったと思います。</span><br /><br /><span>&nbsp;ただまがりなりにも師匠が不在の間、始めの1,2ヶ月は生産量を落としましたが、その後は月平均200本超のお仏壇を仕上ていた私にはある確信がありました。</span><br /><br /><span>師匠が中心で作業している頃からの悩みの種、人材不足は私の成長で十分にカバーできるのではないか、この苦しい残業体質を解消できるのではないか、師匠さえ戻ってくれば大丈夫、って言うのがこの頃の私の考えでした。</span><br /><br /><span>当時の私の環境は社会人として仕事をしている反面、現役高校生なのですから、友達とバカなことしたり、ナンパしにいったり、やりたい事は山ほどありましたが、常に私の中で足枷(あしかせ)のようになっていたのが仕事でした。</span><br /><br /><span>仕事に支障をきたすと思えばそれ以上できない、会社に迷惑をかけられない、自分がいなければみんなが困るから、今は自分しかいないから、みたいな考えが常に頭の中にあり、その一方では他の友達みたいに時間が来れば学校があるからと当然のように帰って行く、自分の事を優先できる者にたいしては「なんで俺ばっかり」みたいなヒガミがありました。</span><br /><br /><span>一番は当時付き合っていた彼女との時間が制限されていたこと、私の生活は昼間仕事 で夜学校+残業、学校の出席日数の問題でどうしても残業できない時は、学校が終わってからまた仕事、足りない分は日曜日仕事、だからデートは月初めの第1第2の日曜日くらい、二人とも月末の誕生日だったし世の中のカップルの祭典クリスマスも月末、笑えますがほとんどのイベントは振替で月初めにしてました。</span><br /><br /><span>そして待ちに待ったその日、すっかり体調も良くなった師匠が会社に挨拶に来ました。</span><br /><br /><span>胃を摘出して食べる量が減ったのもありますが、もともと細身の師匠がガリガリに痩せていて驚きましたが、本人も少しづつしか物を食べられないのが面倒だが、体調はすっかり良くなったと言い安心しました。</span><br /><br /><span>それでもしばらく体調が戻るまでは私に仕事を任し、手伝いくらいから始めると言うことで師匠が復帰する事になったのです。</span><br /><br /><span>ですが復帰してしばらくした頃、師匠の口から思いもよらない言葉が飛び出し驚きました。</span><br /><br /><span>「テっちゃんワシはもう要らん子やけん、仕事辞める事にしたんよ、社長にももう言うてきたんよ、あとはテっちゃんに任すけんな、がんばりよ」&nbsp;</span><br /><br /><span>あえて翻訳しませんが、以前のように動けないもどかしさと、私が中心になって現場を動かし、お仏壇を仕上ている姿を見て自分はもう必要ないと感じ たそうですが、やっぱり職人さんのプライドみたいなことも要因していたと思います。</span><br /><br /><span>先述でも言いましたが、私は当時17歳の若造であり、ましてや元々は師匠の弟子、社長の息子ってのも相まってやりにくいところもあったのだと、もちろんそれだけではなく職人のプライド、病気、いろんな葛藤も当時の師匠にはあったのだと言う事を、その数年後に師匠から聞かされましたが 当時はまさかそんな理由で自分の構想が崩れ去る事になるとは思ってもいませんでした。</span><br /><br /><br /><br /><br /><span>&nbsp;</span><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a> 【日記】 伝物語007-伝の由来 Sat, 06 Jul 2013 09:36:14 +0900 497412 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/497412 <span>私の記憶が正しければ、私が師匠の下で働くようになってから一度も休んだことのない師匠でしたが、その日は珍しいことに師匠が出勤してこず心配していました。</span><br /><br /><span>午後になって師匠が会社に顔をだし聞かされたのが癌でした。</span><br /><br /><span>とはいえほかに転移は無く、手術で治るとの事で安心しましたが、それでどうなるかなんて後の事は考えてもいませんでした。</span><br /><br /><span>転移が無いとはいえ、検査の結果は胃ガン、胃の全摘出手術を行い仕事に復帰できるのは数か月先になると言われ、当時はまだ仕事に対する責任感みたいなものが無かった自分にはただただ漠然と「困ったな」くらいに思っていました。</span><br /><br /><span>ですがこの後事務所で父達との会話中に師匠が思わぬ事を言ったのにビックリしました。</span><br /><br /><span>「社長!てっちゃんおるから大丈夫じゃわ」師匠が父に言った言葉にビックリ、徳島弁で私がいるので大丈夫ってことですが、父もけっこう単純なのか納得してしまい、ただ仕事をこなすのとは訳が違うとにかく大変な状況になってしまったと思いました。</span><br /><br /><span>この師匠の発言があるまでは会社がどうにか、父が、大人達がどうにかするから自分には関係ない、自分には何もできないと思っていた私の考えは簡単に崩れ去り、重い現実が壁のように立ちふさがったのを覚えています。</span><br /><br /><span>仕事とはただ機械のように作業すれば良いなんて単純な物ではない事ぐらい当時の私には十分理解できていたこでした。</span><br /><br /><span>2年近くの間現場で、師匠の元で、多くの先輩達の元で仕事しながら学んだことは、技術的なことだけではなく社会人として生きていく中でしなければならない事、大切なルール、よく言う学校では教えてくれない現実であり、自分自身が雇われる側ではなく雇う側の立場だった事が、より重たい責任となっていたと思います。</span><br /><br /><span>当時17歳になったばかり、自分で選んだ道とはいえ現役の高校2年生、師匠の仕事は通常の作業だけでなく修理、お洗濯のほかにも塗料や梱包資材の管理、発注もちろん作業の段取り、とにかく多忙でしたしそれをいきなり任されたのですから、まさにお先真っ暗でしたが幸いにも性格なのか「やるしかないか」ってすぐ開き直ってました。</span><br /><br /><span>実際仕事をやっていく中で初めのうちはこれと言って不思議なくらい問題なく出来ていましたがとにかく仕事が多いのが悩みでした。</span><br /><br /><span>もともとこの部署は人材不足で会社の中でも圧倒的に残業時間が多い部署でもありましたから、その上その中心ですべてを受け持っていた師匠がいなくなったのですから尋常な忙しさではなかったです。</span><br /><br /><span>最初の仕事がこの場所だったのでその当時は知りませんでしたが、その後海外工場に指導しに行って気が付きましたね、指導していた従業員たちの仕事量の10人分くらいははこなしていたと思います。</span><br /><br /><span>この海外工場で検品、修理、仕上げ、梱包のライン作業員が10名くらいで月産平均200本ほどの生産量だったので、父の会社で私が作業している頃で月産360本なんてのが最高でしたが、この時期は1日の7割会社に居たのでほとんど不登校でした。</span><br /><br /><span>技術的な事は補えないですが、それ以外の部分で手伝ってもらえるようになりその後は残業100時間くらいでなんとか、、、定時制高校(4年制)だったので最後の1年間はなかなか学校に通えず学校で意識を失うなんてこともありました。</span><br /><br /><span>たぶん普通に仏壇工場に勤めている方に比べても仕事の量もさることながら内容的にも濃い修業が出来たのがこの時期だと思います。</span><br /><br /><span>話が少し戻りますが、仕事を任され初めの出荷がの時に1本1本のお仏壇に「帰ってくるなよ」って声をかけたことを今でも覚えています。</span><br /><br /><span>これも師匠からの受売りですが師匠になんで帰ってくるなよって言うのか聞いたらこう言いました「手塩にかけた娘を嫁に出すんやから」ってお仏壇は娘なんですか?思わずツッコみたくなるところですが、つまりそう言う気持ちで出荷すると言う事、自分が手掛けたお仏壇に対する愛情にもにた思い入れ、これも「職人の心意気」って事なのだと教えられた気がします。</span><br /><br /><span>以来私も自分で手掛けたお仏壇、私の弟子達が手掛けたお仏壇が出荷する時にはいつも声をかける様になりました。</span><br /><br /><span>そして数か月が過ぎ、師匠が復帰するのですが、この時の私は師匠が復帰する喜びと肉体的にも、精神的にも疲れていた生活から解放されする喜びで、まさかこれが師匠との別れになるとは思いもしませんでした。</span><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 【日記】 伝物語006‐伝の由来 Thu, 20 Jun 2013 09:32:15 +0900 489406 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/489406 <span>仕上場で普段、常に補助していたのは一緒に作業していた女性社員のかたでしたが</span><br /><span>あの日以来それは私の仕事になり、常に師匠の作業を傍らで見て、盗むチャンスに恵まれる様になりました。</span><br /><br /><span>師匠の口癖は「わしは鳥やけん、じっとしとれんのじゃ」でした。</span><br /><br /><span>徳島の方言で「私は鳥(酉年の事)だから、落ち着いてはいられない」ってことです。</span><br /><br /><span>私も同じようなタイプだったので、この師匠が初めの師だったから?</span><br /><span>でしょうか落ち着きのなさがさらにパワーアップしていたように思います。</span><br /><br /><span>ただ師匠の技術を盗むために一生懸命見ている時間だけは集中していたのは覚えています。</span><br /><br /><span>それに慌ただしく作業している合間に師匠が急に「てっちゃん噴いてみ」と言って技術を試す機会</span><br /><span>を与えてくれるので、集中して見ていないとできませんでした。</span><br /><br /><span>個人差はあると思いますが、当時の私にはこの非効率的な指導があっていたのでしょう</span><br /><span>逆に「見る」、「気付く」と言う事、観察力、洞察力、集中力、 みたいな事の大切さを身をもって教えていたのだと、</span><br /><span>よく言う「職人の心意気」の一端がこう言う事なのかなっと今では思います。</span><br /><br /><span>当時ここでの仕事を例えるなら、負けられない試合で前半の終了間際に先制されたサッカーの試合の       前半、後半みたいな感じでした。</span><br /><br /><span>なぜかと言うとここはお仏壇を仕上、出荷する場所、つまり出荷=収入みたいな場所でした。</span><br /><br /><span>企業によって違うとは思いますが、当時父の会社は作ったお仏壇を収める先が決まっていて</span><br /><span>商品を納めれば収入が確定するみたいな感じでしたので、今の時代では考えられないですが「バブル時代」</span><br /><span>はそれでも商品が足りないくらい売れていたのでしょうから、バブルって凄いって今は良くわかります。</span><br /><br /><span>1本出来たら出荷とかじゃなくロット生産なのでどうしても最終、とくに月末は忙しくなってました。</span><br /><br /><span>今は10本や少ない物だと数本なんてロットもありますが、当時は40本とか大きなロットが主流だったので</span><br /><span>最後は大変でしたね、生産計画なんてあっても無いような物でしたし、、経営者側にも問題はありますが</span><br /><span>買取る、販売業者側からのプレッシャーも相当あったみたいですが、それも私から見れば「バブル」の象徴</span><br /><span>の一つだったのだと思います。</span><br /><br /><span>話がそれましたが、つまり月の前半と後半では仕事の環境はがらりと変わるのです。</span><br /><br /><span>前半は比較的余裕がありますが、後半に入るととにかく必死でって感じでした。</span><br /><br /><span>師匠の元で半年ほどする頃には、比較的簡単な作業、仕上げ作業を任されるようになっていました。</span><br /><br /><span>そして月の初め、月末出荷の後は商品が現場に来ない空白の日が数日あり、この時間に修理作業</span><br /><span>主に販売店がお客様から預かったお仏壇、父の会社で作ったお仏壇、他メーカーが作ったお仏壇</span><br /><span>それらの修理、修繕、お洗濯などをこなしていました。</span><br /><br /><span>大体は全体的な修理、修繕が終われば、立吹きして完了と言う感じでしたが、この時は私にとって最大のチャン</span><br /><span>スでしたね、なにしろ修業中の私が実際に立吹きする機会はこの時しかなかったのですから</span><br /><span>通常のお仏壇はロット作業なので私がノロノロ仕事したりミスを犯せばかなりの作業ロスになります。</span><br /><br /><span>ですが不定期に出荷でき、エアーポケットのように空いた時間、この時だけは師匠からも</span><br /><span>「ミスしたらワシが直したるけん」(徳島弁で「みすしたら私が直してあげるから」)と師匠の了解を得て</span><br /><span>日頃盗んだ技術を思う存分試すことができるチャンスでした。</span><br /><br /><span>それ以外にも、古くなったお仏壇だからわかる事、学べる知識、学べる技術は例えようがないほどの「先生」</span><br /><span>特にお洗濯などで送られてくるお仏壇はどれも10年以上、何十年も経っている物も多く、先人達の知恵や</span><br /><span>技術を見る、学ぶ最高の教材だったと思います。</span><br /><br /><span>私が今までにに修理、お洗濯をしたお仏壇は1000本は超えてるかもしれませんね</span><br /><span>そんな事をしながら1年が過ぎ、2年が過ぎようとしている頃にある事件が起こります。</span><br /><br /><span>これが私の環境を一変することになっていきました。</span><br /><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /> 【日記】 伝物語001‐伝の由来 Fri, 07 Jun 2013 10:48:44 +0900 470840 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/470840 <span>初めまして</span><br /><br /><span>仏壇工房 伝の店長 永山です。</span><br /><br /><span>これから私の生い立ちや</span><br /><br /><span>仏壇と言う物作りのお話をしたいと思います。</span><br /><br /><span>良ければ皆さんクリックしてくださいね。</span><br /><br /><span>まず始めに私のような教養に乏しい者が作成する文書を</span><br /><br /><span>朗読くださる事に感謝と読みにくさへのお詫びをしておきます。</span><br /><br /><span>先ずは私の生い立ちから、、、、、</span><br /><br /><span>1972年10月26日</span><br /><br /><span>徳島県徳島市に生を受けました。</span><br /><br /><span>どちらかと言うと幼少時代より勉強より運動、、、平たく言えば</span><br /><br /><span>勉強が嫌いでした。</span><br /><br /><span>正直現在は多くの皆さんと同じく 「あの時もっと勉強しとけば良かった」</span><br /><br /><span>と今では日々思う毎日を過ごしております。</span><br /><br /><span>私がお仏壇と共に成長して行く過程でどうしても語らなければいけないのが</span><br /><br /><span>とにかく明るくポジティブな父と、人の良いバカが付くほど真面目で世話好きな母</span><br /><br /><span>父は福島県の農家の出と聞いていますが実際にその場所に行ったことはありません</span><br /><br /><span>私の父は2011年に他界しています。</span><br /><br /><span>末期のがんだった父と父の生まれ故郷に旅行する予定でしたが、あの大震災と</span><br /><br /><span>長男の出産が重なり連れてゆく事は出来ませんでした。</span><br /><br /><span>母は父が亡くなる2年前に同じくがんで他界しています。</span><br /><br /><span>当時私は日本からのお客様の案内で中国に居て、母の傍にはいてあげられませんでした。</span><br /><br /><span>真面目な母は私の仕事の邪魔にならないようにと周囲にお願いする人でしたから</span><br /><br /><span>この二人の影響は一番大きかったのではと思います。</span><br /><br /><span>これからお仏壇と共に私が成長して行く過程でちょくちょく顔を出してくる事になりますので</span><br /><br /><span>宜しくお願いします。</span><br /><br /><span>幼少時代にはとにかく遊ぶことが何より最優先事項でした。</span><br /><br /><span>幼稚園時代には迎えに来た母に見つからないよう一人で帰ってたそうで一緒に帰るのは</span><br /><br /><span>まれだったそうです。</span><br /><br /><span>小学2年生くらいになると家に帰るのは毎晩10時頃、遅い時は12時近くまで遊んでました。</span><br /><br /><span>ほぼ毎日父に怒られ家になかなか入れませんでした。</span><br /><br /><span>この頃の日課は朝5時に学校に行き、水槽の掃除したりして金魚の世話したり</span><br /><br /><span>ウサギの世話したりして、事業中はほぼ ぼーっとしてましたね、頭が起きてるのは</span><br /><br /><span>体育、給食、昼休みくらいです。</span><br /><br /><span>午後3時には犬の散歩して、一人冷蔵庫あさっては御飯済ませて遊びに行く毎日でした。</span><br /><br /><span>正直夜帰って怒られるまで親と合わないくらいでした。</span><br /><br /><span>夏休みのある日、父に連れられ父の経営する工場で</span><br /><br /><span>つまり私が生涯付き合って行く事になる</span><br /><br /><span>伝統工芸である仏壇作りと初めて接する事になるのでした。</span><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><span style="font-size: xx-small;"><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a></span> 【日記】 伝物語005‐伝の由来 Fri, 07 Jun 2013 10:48:14 +0900 482817 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/482817 <span>最初はお手伝い程度で忙しい時のみのヘルプ要員みたいな感じでしたが、ここでの作業は当時の私&nbsp;からすれば</span><br /><br /><span>天国みたいに感じていたかもしれません</span><br /><br /><span>ただただ単調な作業から一転、とにかく忙しく8時間の作業時間があっと言う間に過ぎるのですから</span><br /><br /><span>またここでは仕事の手伝いと言うよりも任される感じで、ヤリガイを感じていたのかもしれません</span><br /><br /><span>もともと手先が器用で、細かい仕事は得意でしたので向いていたと言う方が正しいのかもしれませんが</span><br /><br /><span>どんな作業かと言うと、組立てられたお仏壇を隅々まで検品し修理したり、お仏壇の部品に金紙を貼ったり</span><br /><br /><span>ゴミや手あか等を落としピカピカにしてから立吹きに職人さんに渡す作業が主です。</span><br /><br /><span>今まではどんな仕事も手伝いで任されることはなかった私にしてみればものすごく「認められた感」 が</span><br /><br /><span>強く持てたので楽しく感じていましたね、ですがこれを教えてくれたのは長年勤めていた女性の社員さんでした。</span><br /><br /><span>仕上場の責任者の職人さんは何も教えてくれませんでした。</span><br /><br /><span>木工現場と違いほとんど機械を使わない作業なので、いつも注意深く職人さんの作業をみていました。</span><br /><br /><span>最初の1、2ヶ月は手伝いでしたが、途中からこの部署に配置換えになりました。</span><br /><br /><span>理由は簡単、とにかく人手が足りず困っていたところに楽しそうに手伝いにくる私は適任だったのでしょう</span><br /><br /><span>ほぼ相思相愛みたいな感じで引抜かれてました。</span><br /><br /><span>後にしてみれば、これがとんでもない苦労の始まりでしたが、この時まだまだ社会の厳しさを知らない子供の私</span><br /><br /><span>には想像すらできなかったのですが、、、</span><br /><br /><span>仕上場に機械はあまり無いですが、塗料を吹き付けるスプレーやそこにエアーを送る機械</span><br /><br /><span>塗料を吸い込み排出する機械が主だった物ですが、こういった機械で作業するのは職人さんの仕事でした。</span><br /><br /><span>ある日手伝いをしていると職人さんが「てっちゃん、吹いてみるか」と言いました。</span><br /><br /><span>(当時てっちゃんと呼ばれていました)</span><br /><br /><span>以前から興味深々で見ていた私は二つ返事でニヤニヤしながら「やる」と言ったのを覚えてます。</span><br /><br /><span>その時職人さんに言われたのが「なんで教えんかわかるか、わしら職人は教えてやったりせえへん、技術は自</span><br /><br /><span>分で見て盗まなアカン」と言われたのが人生で最初の職人としての教訓でした。</span><br /><br /><span>この日からこの職人さんが私の最初の師匠となったのでした。</span><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /><br /> 【日記】 伝物語004-伝の由来 Fri, 31 May 2013 10:48:25 +0900 479241 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/479241 <span>父の工場に勤めて一月ほどして、周りの職人さん達から少しづつですが</span><br /><br /><span>機械の使い方など教えてもらうようになりました。</span><br /><br /><span>「職人さん」 と聞くとカンナに金槌、ノミだとか持って職人ならではの技みたいなイメージがあると思いますが</span><br /><span>&nbsp;</span><br /><span>実際は作業のほとんどを機械で行い、そういった道具は修正、組立作業などで使います。</span><br /><br /><span>とは言っても各作業のどれも豊富な知識と経験が必要なのでそう簡単には覚えられません</span><br /><br /><span>私自身も現在進行形で日々最良の方法を模索する毎日です。</span><br /><br /><span>これは私の哲学論みたいな感じですが、どんな物造りにも完璧は無いからです。</span><br /><br /><span>私が完璧と思った時点で、私の成長は終わりなんだと思っています。</span><br /><br /><span>特にお仏壇は木を加工して作りますが、「木」は生き物なので常に状態が変化し続けます。</span><br /><br /><span>今後も修業の毎日だと思いますね、お仏壇の主な製造工程もいつか紹介したいと思います。</span><br /><br /><span>話がそれましたが職人さん達に教わりながら木工の仕事をしていましたが</span><br /><br /><span>ある日別の部署に頼まれ手伝いに行きました。</span><br /><br /><span>そこでのお手伝いが私の職人としての天機になることになったのです。</span><br /><br /><span>お手伝いで言った先が塗装場だったのですが、子供のころから遊ぶ道具も無く、父が組立作業いつも</span><br /><br /><span>していたので塗装場にはあまり近づかなかった気がします。</span><br /><br /><span>当時父の工場は3階建てだったのですが、塗装場は最上階にありました。</span><br /><br /><span>ここからは「塗装場」の事を「仕上場」と書くことにします。</span><br /><br /><span>当時主な塗装はすべて外注に委託していましたのでお仏壇の各パーツは木地加工できたらトラックで</span><br /><br /><span>下請け業者の所で塗装してから工場に持って帰り、組立、仕上げとなっていました。</span><br /><br /><span>一般的には家具などもそうですが、塗装して組立て終わりですが、徳島仏壇の特徴の一つは組立後</span><br /><br /><span>最終に仕上げ塗装を行うところにあり、この作業を「立吹き」といいます。</span><br /><br /><span>ですから徳島では塗装職人以外に立吹き職人なんて言う職人さんがいます。</span><br /><br /><span>私が初めに職人となったのがこの立吹き職人なったのです。</span><br /><br /><span>立吹きの特徴は何かと言うと、例えば1つのお仏壇にはいろんな部品があります。</span><br /><br /><span>商品によって異なりますが、当時父の工場で製造していたのが主に突板張りの商品でした。</span><br /><br /><span>突板張りとは加工した木やボード(集成木材)の上に木の皮(突板)を張り付けることです。</span><br /><br /><span>と言ってもすべての部位に張り付けるのではなく主要部位に張り付けます。</span><br /><br /><span>それ以外の部分はシンコクと呼ばれる着色料を馬のタテガミで作った特殊な刷毛(はけ)</span><br /><br /><span>シンコク刷毛を使い木目を手で書いていた部品や、白い木に着色だけの部品等ありました。</span><br /><br /><span>これら部品を個々に塗装して色は合わせてますが、実際組み立てるとおもしろいもので</span><br /><br /><span>見る角度や木目の方向、木の個性で色が合わなかったりします。</span><br /><br /><span>実際は目の錯覚みたいなものですが、組立てたお仏壇の色の微調整や検査時に見つかった</span><br /><br /><span>傷などを補修してもう一度クリアーの塗料で仕上げるのです。</span><br /><br /><span>慣れるまで結構難しいですが私が今まで自分の手で仕上げたお仏壇は大体2500本くらいです。</span><br /><br /><span>この仕上場の職人さんが私の最初の師匠になる人でした。</span><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /><br /><br /> 【日記】 伝物語003‐伝の由来 Thu, 23 May 2013 09:20:29 +0900 475306 https://den-butsudan.on.omisenomikata.jp/diary/475306 <span>朝の連続テレビ小説〈あまちゃん〉の主人公と違い、「海女さんになりたい!」みたいな意気込みもなく</span><br /><br /><span>「やっぱり仏壇つくるだろうな」&nbsp;くらいの気持ちで 中学生活を勉学にいそしむ事もなく遊びほうけていました。</span><br /><br /><span>高校進学にも目標がなく、受験はしましたが結果は言うまでもなく、、、、</span><br /><br /><span>父の会社で修業しながら定時制高校に通う日々を送る事になりましたが結果的には良かった気もしています。</span><br /><br /><span>お仏壇職人の道に進むのが遅ければ今の自分も無かったかもしれません&nbsp;</span><br /><br /><span>なぜなら昭和60年代はバブルの後期、この頃多くの中間層の職人さん達は高収入を求めて辞めていきました。</span><br /><br /><span>また若い人たちにとっては3K(汚い、キツイ、給料安い)みたな言葉が流行になってた時代</span><br /><br /><span>とても長く続けていくのが困難な時代でもありました。</span><br /><br /><span>正直私と同年代のお仏壇職人には今まで会ったことがないくらいです。</span><br /><br /><span>お仏壇職人と言っても色々な種類があります。</span><br /><br /><span>唐木仏壇、金仏壇、信徒檀、などが主に代表的な物だと思います。</span><br /><br /><span>最近では家具調仏壇などもありますが家具調仏壇に関してはお仏壇の職人の技術が無くても作れる</span><br /><br /><span>時代を反映した仏壇かもしれないですね、私の専門は唐木仏壇のジャンルになります。</span><br /><br /><span>私が生まれ育った徳島県は唐木仏壇の産地であり、高級唐木仏壇のブランドとして全国に配給していました。</span><br /><br /><span>父の工場だけではなく、周りの環境なども含め今では天職だったんだなと思っています。</span><br /><br /><span>話が少しそれてしまいましたが、初めて工場で働きだした頃は、「一日ってこんなに長いんだ」</span><br /><br /><span>と思ったのが率直な感想ですね、朝8時から夕方5時まで入社当初は「前取り」と言う作業ばかりしていました。</span><br /><br /><span>来る日も、来る日も機械から出てくるカットもしくは削られた木材を台車にひたすら積み上げる</span><br /><br /><span>「お前がじっとしてたら死でしまうかも」と言われるくらい一所に落ち着けない性分だったので</span><br /><br /><span>当時の私にしてみれば苦痛、拷問、いやがらせ、くらいに感じていました。</span><br /><br /><span>今にして思えばこの何でもない作業でも、多くを学べるチャンスだったんだなと思います。</span><br /><br /><span>仕事だけではなく、勉学でも、スポーツでも「気づく」、「気が付く」と言う事を常に意識するようになりました。</span><br /><br /><span>この後ある職人さんとの出会いが私の職人としての転機</span><br /><br /><span>漠然としてではなく本気で進むきっかけになっていくことになります。</span><br /><br /><br /><br /><br /><a title="仏壇工房 伝" href="http://den-butsudan.jp/" target="_blank">お仏壇の事なら仏壇工房 伝&nbsp;</a><br /><br /><br /><br 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